まず結論から
伊坂幸太郎の小説『魔王』を、少年サンデー向けに大幅にアレンジしたマンガ版。原作小説の社会派サスペンスを、能力バトル・ジュブナイル要素で再構築した骨太の10巻だ。
読みどころは三つ。一つ目は、兄の「腹話術」という一見地味な能力で戦い抜くハラハラ感。二つ目は、弟・安藤潤也の覚醒と、その能力を自覚して使いこなしていく爽快感。三つ目は、伊坂幸太郎の小説『グラスホッパー』から流れてくる殺し屋たちの世界観・世の中の裏側の手触り。この三つが10巻にぎゅっと詰まっている。
兄の「腹話術」というギリギリの能力
主人公は安藤兄弟。第一章の主人公は兄で、能力は「腹話術」——自分の考えたことを他人に話させる力だ。
この設定の妙は、「一見、戦闘向きじゃない」ことにある。攻撃力ゼロ、防御力ゼロ、相手を直接傷つけることもできない。やれることは「相手に自分の意図した一言を発声させる」だけ。少年マンガの能力としては、あまりに地味だ。
でも本作はその地味な能力を、政治と社会の歯車の中でギリギリに使い切る方向に物語を展開させる。「いつ・誰に・何を言わせるか」を緻密に組み立てて、相手の言動を逆手に取り、世論を動かし、敵対勢力の足元を崩す。能力が小さい分、頭脳と度胸で勝つ構造になっていて、これが一巻一巻ハラハラさせる。
兄の口癖は「考えろ」。これがそのまま作品全体のテーマになっている。能力の強弱だけで決まる少年マンガとは違う、「思考の鋭さで勝負する少年マンガ」として、本作は独特の立ち位置を確立している。
弟・潤也の覚醒と「最高に欲しい能力」
そして第二章。物語の主人公は弟・安藤潤也に切り替わる。
ここが本作の大きな引きで、弟が自分の能力を覚醒させ、自覚し、使いこなして目的を達するまでの流れに、引き込まれずにはいられない。兄の腹話術とは別の方向性の能力で、しかもこれが——個人的に最高に欲しい能力だ。
具体的なネタバレは控えるが、潤也の能力は「運」と「確率」を制御するタイプ。日常の小さな選択から大きな決断まで、どこにでも使える汎用性の高さが魅力で、読みながら「これ、自分が持ちたい」と何度も思った。少年マンガの能力で「自分が手に入れたい」と純粋に思える能力は、そう多くない。潤也の能力はそういう希少な部類に入る。
そして弟の覚醒は、ただの「強くなった」話ではない。兄が積み上げてきた思考と覚悟を引き継いだ上での覚醒で、第一章と第二章が一本の物語として綺麗に繋がる。10巻という尺で、これだけ完成度の高い兄弟物語を成立させたのは見事だと思う。
殺し屋たちと、世の中の裏側
本作のもう一つの魅力は、伊坂幸太郎の別作品『グラスホッパー』から流れ込んでくる殺し屋たちの存在だ。
蝉(ナイフ使い)、鯨(自殺屋・両目を見せると対象が自殺する)、槿(押し屋・人ごみで対象を押すことで殺害)、岩西(殺人請負事務所の経営者)——それぞれが個性をしっかり持っていて、「殺し屋」というファンタジー職業を、リアルに近い手触りで描いているのがすごい。
少年マンガの世界に、こういう「世の中の裏側で動いている人々」がしれっと出てくる構造が良い。安藤兄弟が表の世界で社会派サスペンスを戦っている裏で、こいつらが暗躍している。表と裏の二層構造で世界が描かれるので、読み終わった後に「世界の輪郭」みたいなものが広く感じられる。
この殺し屋たちの物語は、別作品『グラスホッパー』のマンガ版で正面から描かれている。両方読むと、世界の解像度が二倍になる。
絵・演出について
大須賀めぐみの絵は、少年サンデーの王道。線が綺麗で、キャラの感情の揺らぎがコマごとにきっちり伝わってくる。「思考」を絵で見せるのが得意な作家で、安藤兄弟が頭の中で次の一手を組み立てる場面の、内面描写と外面描写の切り替えが上手い。
能力描写も派手に振りすぎず、「腹話術」という地味なギミックを、コマ運びと表情のアップで読み応えのある演出に仕上げている。能力の派手さに頼らず、心理戦で読ませる絵作りが本作のトーンに合っている。
気になった点
原作の伊坂幸太郎の小説『魔王』を読んだ人は、マンガ版が大幅にアレンジされていることに最初は戸惑うかもしれない。少年サンデー向けに能力バトル要素を強めて、ジュブナイル路線で再構築されているので、原作の渋い社会派サスペンスとは別物として読む心構えが必要。
それから、政治と社会の歯車を扱う作品なので、選挙・世論・群衆心理といったテーマがピンとこない人には、序盤がやや地味に感じるかもしれない。能力バトルが本格化するのは中盤以降なので、最初の数巻は思考と社会描写に集中して読む必要がある。
- 頭脳戦・心理戦が好きな人
- 「地味な能力で戦う」構造が好きな人
- 伊坂幸太郎の小説が好きな人
- 社会派サスペンスを少年マンガで読みたい人
- 10巻で綺麗に完結する物語を一気読みしたい人
- 派手な能力バトルを期待する人
- 政治・社会の描写が苦手な人
- 原作小説のトーンを期待して読む人
兄の地味な能力で戦い抜くハラハラ、弟の覚醒、殺し屋たちの世界——10巻にこれだけの要素を詰めて、しかも綺麗に完結させた構成力は素直に偉い。少年マンガの「能力」と「思考」のバランスを、ジュブナイルとして再定義した一作。個人的には、潤也の能力が手に入るなら欲しい。それくらい刺さるキャラクターと能力の作品だ。
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